カーニバル化する社会とバブルへGO!!

午前中は『バブルへGO!!』を観、午後は『カーニバル化する社会』を読む。そんな中感じたのが、仮に現代の視点からみた“バブル”だとしても、バブルの頃は「働く」=「やりたいこと」だったのだろうか、という疑問が、ふと浮かんだ。

「働く」=「やりたいこと」を強要されて来て、モラトリアム延長を願っていたので、「働く」ということを選択することが異常に辛かった。それは『カーニバル化する社会』

何故自己分析は苦痛なのか。おそらくもっとも苦痛を伴うのは、学生の側に「やりたいこと」など何もない、と感じられている場合だろう。何もないところから、「私はなぜ働くのか」という、勤労への動機づけをどうにかして発見し、エントリーシートに記入しなければならないとすれば、その活動は大変な虚無感を伴う作業になる。

とあるが、全くその通りだった。しかし、

確かに、採用する側の論理としては、「一瞬の盛り上がり」で発見されたかのような「やりたいこと」で働かれても困るということはあるだろう。

一生涯「やりたいこと」が出来る人間はどれほどいるのだろうか。

氷河期で、企業が、社員に教育するコストがかけられず、「やりたいこと」で就職している社員に自己責任の名のもとで、学びの部分も含めてどんどん業務をこなしていって欲しかったのは分かる。

しかし、時代の変革の中で、「やりたいこと」業務分野が廃れ、社員に「やりたくないこと」を強要しなければならなくなった時のモチベーションはどうすれば良いのだろうか。

一つには教育に再びコストをかけることがあげられるだろう。しかし私としては、評価軸をキチンと設定する、ということが第一ステップとしては大切に思える。

『教育格差絶望社会』の中で足立区立東高校の星野校長は、卒業して大学に進学する生徒が少ない生徒に対して、習熟度別の授業を行ったところ

「彼らは早い段階でつまずいていますから、中学ではいつも置いていかれてしまったんですよ。ここでは同質の子が集まっていますし、そのうえで習熟度別にして、彼らのレベルに付き合います。そうしてわかるようになれば、数学や英語もつまらなくはないようですよ。」

と述べている。習熟度別ということで、自分が何ができ、何ができていないかという軸がはっきり認識させた上で、自分の知らないことを知り、それが出来るようになると、それが全く役に立たない知識でも知ること自体は楽しいことなのだ。

これは上記の「やりたくない」ことでも、それが出来るようになっただけでも、それは楽しいことではないだろうか。No.1やonly.1と呼ばれているが、他者と比べて一番になるとか、世界の中のスペシャリストになることが求められているが、それは自分の中で出来ないことが出来るようになるだけでもすばらしいのではないだろうか。

手前味噌の話だけれど、自己分析では全く初対面の人が苦手で、営業職は向いておらず営業なんてことに喜びを感じることはないだろうと思っていた。けれど、(ちょっと怖い)上司の命令で、関係者向けだけに配布している社内誌を書店に販売できるようしろに言われた。本心を言えばとりあえず行ってきて、「済みません、本屋では扱ってくれませんでした」と事実を報告すればいいや、くらいに思っていたが、意外にも本屋にあっさり置いていただけることになった。

置いていただいただけでもうれしかったが、その本が確実に売れて、追加注文が入ったときは自信に繋がった。もちろん社内誌なので、本の売り上げだけで食える訳ではないが、その自信は他の営業でも活かせる(少なくとも他の営業に出かけることにネガティブにならなくなった)と思う。

いきなりスケールが大きくなって恐縮だが、人類が始まってからの歴史の中でNo.1はおろか、only.1になることなんか出来ない。だけれども、自分の歴史の中で、昨日より今日がましになっていれば良いのではないだろうか。

『バブルでGO!!』の中で、阿部寛演じる下川路が広末涼子演じる田中真弓の「そんな毎日で不安にならない」という質問に対して「いいや。おもしろおかしく生きているのだからいいじゃん」と答えるのだが、「おもしろおかしく生きられず」、「やりたいこと」探しを続けて一生を生きていくのは逆にむなしいのではないか。フリータではなく、とりあえず働いて、その中で働く面白みを探すある意味「刹那的な」生き方もありなのではないだろうか。

バブルの軽さを自嘲するかのようなホイチョイ映画だが、意外に考えさせられてしまった。