なんか飽きた

昨日、Joy ItoがCCについて語る番組をMX TVでやっていた。iSightを載っけた30inchのApple Cinema Displayがある彼の自宅を背景に、Joy ItoがCCについて語る番組だ。内容はほぼ分かっていたとおりだったので、別に対して興味をそそられなかったが、その編集技術が鼻についた。

結局バブル世代に乗り切れなった、もしくはinternetの黎明期のwiredが使っていたような技術やデザイン(ワイプの多用、細切れのカット等々)で、流していた。

一言で言えば全然斬新では無かった。正直格好悪い。

既に人生の折り返しを過ぎて、若い人の感性にはついていけない自分はあるものの、このダサさは何だ。使い古されて実験的でない映像表現は何なのだろうか。

と考えると、もうnetなんて最先端でもなんでも無くなっているのだなぁ。CCもアマチュアでもなく、プロでもない人々が如何に表現するか、をサブで支えるものでしかなく、CC自体は核ではないな(問題の核はどうやってrest of usが表現するかの方だ。しかし、CCしか話題にできないのも悲しい)。

もうnetなんて、はてなアンテナで、決まった数カ所を巡回しているに過ぎないし、新しい発見なんかなんにも無い。もう終わっているなぁ。

このエントリーは偶々、土屋大洋さんのHotwiredのコラム『ネットポリティクス』を読んで何か書きたいと思って書いたものだけど、「インターネットの政治学序説」というコラムに「8年も前のことになるが、ある学会でインターネットに関する発表をしたところ、「君、インターネットなんておもちゃよりも電話の方が大事だろ」とコメントされて答えに窮したことがある。」とあったが、もう8年も経ったインターネットもおもちゃじゃなくなって、社会の一器官になってしまったら、もう先端じゃないよなぁ、と思った次第なのです。

支離滅裂になってしまったけれど、言いたいことは「すでに先端でも無くなったものに対して、これは先端なのです。格好いいのです。これで社会がどんどん変わっていくのです」なんて言うのは止めない?もう変わったとは思うけど、これ以上netという一要素だけで社会が変わるとは思えないし、これ以上言っても虚しいと思うのだけど。

netで歪んだ事象をどうやって快復するか、がここ数年の課題にはなるとは思うけど、もうnetだけでは変わらない。だってnetを扱っている番組が使い古された表現を使っている時点で、もうダメですね。