評判のゲームとベキ法則

『政策空間』vol.21の庄司昌彦「産業化と情報化と政策の役割」(http://www.policyspace.com/archives/200503/post_330.php)を読んでそれに触発されて少しコメントを書いてみようと思う。

彼のいう「先進国が辿った発展過程を参考にしながら、キャッチアップを図る」モデルの産業社会とは異なって、「情報技術関連の産業や知識関連の産業において、途上国が急速にキャッチアップ」したり「成功すれば一気に前方に跳び出可能性を持ちながら互いに抜きつ抜かれつを繰り返す「蛙跳び」状況」ができることがままある、とう議論はとても面白かった。(だがしかし「ベキ法則」の呪いは付きまとう。)

産業社会でもその「ベキ法則」の呪いを少しでもとこうと、独占禁止法などの「さまざまな政策を実施することによって、問題の改善に取組んできた」ので、情報化社会でもなすがままではなく、「ベキ法則の呪い」を是正する政策がますます必要になってくるだろう、と彼は結論づけている。

その「呪い」をとく為の、様々政策や施策が必要であることには反論はしない。

だが公文流の議論のってにいうと、産業化社会が富のゲームを根本原理とするならば、情報化社会は評判のゲームが根本原理となるだろう。

インフラ部分では確かに、彼の政策を施すことによって「ベキ法則の呪い」を是正する方向には行くだろうが、その上の部分に関しては、また別に評判の「ベキ法則の呪い」がかかるだろう。

例えば、私のような雑記を書いているプログは、ほとんど参照されることもなく、消えていくことだろう。一方で切込隊長のプログなどは、ベキ法則の上位に位置することになり、ますます評判のゲームを勝ち抜いていくことだろう。

ここでの「ベキ法則の呪い」は問題にしなくて良いのだろうか。

産業化社会の前の時代、つまりは軍事化社会を考えてみると、軍事化社会はお金よりも、威のゲームが根本原理だったので、富は威の代償としては価値が低かったのではないだろうか。そこで富で補完されたとしても、威のゲームのプレイヤは満足はしなかったのではないか。

今後、情報化社会に移行する、と仮定して、果たして富のゲームの基本原理による「ベキ法則の呪い」の是正政策が妥当に動くことが出来るのだろうか。

インフラ部分だけでなく、その上位のレイヤーについても今後は大きな課題となってくるだろう。(そもそも評判のゲーム上での「ベキ法則」の是正をすべきか、どうかも大きな課題ではある。)